ジャパンオープンについて
「ジャパンオープン」といわれる由縁
 1996年に日本障害者ゴルフ協会が初めて行った障害者のゴルフ大会は「日本障害者オープンゴルフ選手権」と名づけられました。名づけ親は佐藤成定代表理事です。日本のゴルフ界でメジャーな選手権として知られる「日本オープンゴルフ選手権」にあやかったものですが、障害者の「日本オープン」として、年々質を高め、日本で最高の障害者ゴルフ大会にしようという気概がこめられました。
 また、障害を持つゴルファーなら、プロも外国人も受け入れようとするオープンな姿勢を示してもいました。実際、現在海外ではこの選手権は「ジャパンオープン」として知られています。

 1996年11月26日に開催された「第1回日本障害者オープンゴルフ選手権」の参加者はたった33人でした。ただし、北海道から九州まで全国から参加者が集まっていました。会場であるウイングフィールドゴルフ倶楽部には、乗用カートがまだ数台しかなく、大半の参加者は歩いてラウンドしました。それでも不平を言う人など一人もなく、みんなが障害者ゴルフの全国大会が開かれることに興奮していました。

 日本で初めて車いすプレーを導入

 この第1回選手権でのハイライトは、日本で初めて「車いすによるゴルフプレー」を実現したことです。芝を傷めないように太い車輪を装備した、「バギー」と呼ばれる特殊車いすを使いました。プレーしたのは5人の車いすプレーヤー。全員、他の障害者スポーツで活躍している人たちでしたが、当然、ゴルフのラウンドは初めてでした、
 初めて、車いすプレーヤーがボールを打った時は、100ヤードくらいの飛距離でしたが、周囲で見ていた人たちは拍手をして、感動を分かち合ったものです。

 チャンピオン登場

 1997年10月に開催された第2回選手権には、第1回の参加者の倍にあたる60数名が参加しました。この2回目から日本ゴルフ協会の後援を受け、また毎年大会を支援していただいている「東京世田谷ライオンズクラブ」が協力を申し出てくださいました。徐々に障害者のゴルフ選手権としての体裁が整ってきました。


 この年、後にこの選手権で4勝をあげることになる青年が大分県から参加しました。左大腿切断の古田謙さん(当時34歳)です。平均飛距離250ヤードの豪快なドライバーショットに加えて、アプローチやパターも巧いオールラウンドなプレーヤーで、グロス74で総合優勝を果たしました。2位は前年のチャンピオン・清水明利さんで、スコアはグロス78でした。

 知的障害の部を設立

 また、この年から「知的障害の部」が新設されました。3名の青年が参加。当たれば遠くへボールが飛ぶ魅力が彼らの心をとらえ、また、パッティングなどは集中力のトレーニングにもなります。この日を境に、ゴルフが好きだという知的障害のプレーヤーを月例などでも受け入れ、トレーニングの成果を上げています。
「知的障害の部」があるのは日本障害者ゴルフ協会(DGA)の競技会だけです。

 2000年の第5回選手権から、2日間36ホール競技(もちろんスクラッチ)になりました。

 この年から海外交流を開始し、アメリカの障害者ゴルフ団体の主催する競技会に日本選手が参加するようになりました。そこにはイギリスなどヨーロッパ諸国の選手やオーストラリアから選手が参加していました。
 彼らの話を聞いてみると海外の試合はほとんど3日間54ホールプレーです。日本のように1日の試合で勝敗をつける国はどこにもありませんでした。真の実力を競い、海外からの選手にも満足してもらうために、「日本障害者オープンゴルフ選手権」は2日間36ホールの競技になりました。

 海外からも参加、国際大会になる

 この年からアメリカ、イギリス、スウェーデン、オーストラリアなどからすぐれた障害者プレーヤーが参加するようになりました。まだ人数はそんなに多くはないですが。
 彼らの渡航費用や参加費はすべて自己負担です。アメリカの試合に参加したときに、片端から参加者に「日本に来ない?」と声をかけています。結構大変な作業です。しかし、一度来てくれた選手にはリピーターも多く、日本のことを何も知らなかったのに今ではすっかり日本通になった選手もいます。

 

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ジョン・バーン(UK 右)とアンドりゅー・ザンティアティオティス(オーストラリア) 2002年来日。ジョンはイギリスの障害者ゴルフ団体のリーダーだった。
ロルフ・アイバーソン(スウェーデン) 2001来日。グリーン上の衝撃的な格好でのパター。 ダン・コックス(USA) 2000年から皆勤賞で参加。アメリカで十指に数えられるプレーヤー。